Archive for 7月, 2009

2009/07/26

『クロスゲーム』

“ノモのえかきうた”とかって毎回、おんなじ映像を流すだけなんて、工夫がなくてつまらんなあ、とかうっかり思っちゃったけど、いやいや、それは『【懺・】さよなら絶望先生』の悪い影響じゃありませんか、と反省した。
そもそもの意図がまったく違うところ向いてるんだからな。
 
幼児の描いたノモと、麦人が描いた糸色望を並べて飾りたい。
 
 

2009/07/25

『獣の奏者エリン』

このところはエリンとの仲睦まじい関係の中で、穏やかな可愛らしさばかりを見せていたリランの描写だが、その気分をガツンッ!と突き放す今回。ジョウン父さんの死を乗り越えかけてたエリンへの更なる試練。
 
 
以前、『ムツゴロウ王国』の番組の中で、ムツゴロウさんがライオンに、檻の外から差し入れた手の指を咬みちぎられてしまった、という事故のときの様子を見せていたけど、応急処置が済んだ後のムツゴロウさんは「自分が咬まれたときに手を引き抜こうと引っ張っちゃったのが悪いんですよ。あの子も悪いことをしたっていうのは分かってるんですよ、ほら、怯えて近付いてこないでしょう」と、檻の隅でうずくまってるそのライオンを、ただひたすら心配してる、っていう映像を思い出したよ。
 
 
終盤のエリンのモノローグは、エサル先生に、もしリランと今後も同様の接し方を続けるなら書いておきなさい、と言われていた遺書、つまり万一リランに殺されるようなことが有っても責任は全て自分にあるという形で済ませることを認める誓約書、それを読み上げていたんだよね?
彼女の悲壮な覚悟が淡々と、且つ重々しく語られつつ終わっていくラストの余韻がなんともいえない。
 
咬み裂かれてしまったエリンの右耳、この後もずっと耳たぶが欠けてしまってるとか、それが行き過ぎなら、あまり見られないように髪型変えてるとか、そういった表現がNHKのアニメの女の子の主人公で出来たら、それはすごいんだけどなあ、なんてことを考えてたけど、次回予告で見れた18歳になった彼女の耳は、すっかり元通りのようだったのがちょっとだけ残念、というのは悪趣味だろうか。
でも、せめて傷跡だけ、もし常に見えている部分ではダメならば、肩のほうの傷でならどうだろうと思ってしまう。命の危険もあったような、そしてそれ以上に物語りとして欠かせない意味のあるケガだったんだから。
 
 

2009/07/24

思わぬ贈られもの

今日、メール便が届いた。
あれ?ネットオークションの落札品でも着くタイミングだったかな?と思ったら
 
 「栗本薫さん、お別れの会」実行委員会
 
・・・からのものだった。
20日、しめやかに開かれたはずのこの会だが、
自分は参加申込をしたものの、抽選に漏れてしまったので、
せめて栗本さんへのメッセージを書いたハガキが無事、
遺影の下に供えられたことを祈るばかりだったのだが。
 
封を開けてみると、小冊子が一冊。
会の式次第と栗本さんの夫、今岡氏の挨拶文、
そして栗本 薫/中島 梓の全仕事一覧、という内容。
当日の来場者に配られたものを、
惜しくも参加できなかった人たちにも送付、ということだった。
 
これを受け取って初めて、参加できなかった自分の気持ちが
まだどこか宙ぶらりんだったことを自覚した。
 
ネットでは今日から期間限定で、「お別れの会」の様子が
ストリーミング配信される。
開始から終了までのほぼ全てが観られるらしい。
 
もうそろそろ、このあたりでちゃんとケジメを付けないといけない。
 
 

2009/07/23

金田伊功

やっぱり書いてしまう、“オレと金田”的文章。
 
 
正直に言ってしまうと、この人のことをちゃんと認識したのは、もう既にフォロワーと呼ばれる人たちが『六神合体ゴッドマーズ』(’81)なんかでバリバリに活躍し始めてる頃のことだ。
 
正確には、その前に雑誌『アニメージュ』での特集記事があるのだが、最初にそれを見たときには、あまりピンと来てなかった。オレは『ずっこけナイト ドンデラマンチャ』(’80)あたりは、本放送で観てなかったから。
 
その後『ゴッドマーズ』で、ガイヤーとかが、なんか腕や腰をヘンな曲げ方して飛んでたり、妙に画面手前に拳を突き出してたり、タイミングも独特だったりと、明らかに異質な絵で動いてるのが気になり始め、ひょっとして、これはカッコイイのか?と感じ始め、そしてそれに“金田流”って源泉がある、というのがアニメ誌の解説などで分かるようになり、
 
そこで先のアニメージュの特集、そして『無敵鋼人ダイターン3』(’78)のあのヘンなガニマタ、そこら辺と符合するのである。だから大分、後付けなんだ、多分。
ビートたけしのモノマネしろって言われたら松村のモノマネのモノマネになっちゃうみたいなモンなんだよ。
 
でも、分かってからは当然、フォロワーの人たちのも含めて“あの作画”をバリバリに追っかけるようになる。(ところでフォロワーというと、いのまたむつみなんかも立派にそうだと思うんだけど、こういう時にあまり名前が挙がらないように思うのは気のせいか?今度行われる『送る会』でも発起人に名を連ねてるけど。大張なんかよりもよっぽど直系だよね?)
 
『ビデオ戦士レザリオン』(’83)の最終回に、その一派が大挙して参加してたのなんかはもう“分かってて”喜んで観ていたわけだ。
 
だけど、この『レザリオン』も最終回だけ、なんていうのも含めて、オレがそうなる頃には、もう金田さんは劇場用作品やOVAとか、オープニングだけとか、けっこう特別なところでしか仕事が観られないような人になってたと思う。何を持って最盛期と言うかはビミョーなところだけど、この人の作画がテレビ作品なんかで一番“普通”に観れた時期を、オレはリアルタイムでは経験してない、という感覚だ。それが残念という気分は、ずっと持っている。
 
 
でも、それから観られるものはすっかり“意識して”観るようになり、マネするときはマネしてみたり(笑)積極的に摂取を心がけていった。
 
そして当たり前のようにOVA『バース』(’84)も買ったりするのである。(その前にモーションコミックでマンガ版を読んでるわけだが)
 
そして、金田作画の見本市みたいなそれを観て、ああ、やっぱり金田さんはアニメーターとして神なのであり、演出的なセンスはゼロなのだなあ、と確信するのだ。
 
 
時の流れは残酷なもので、氏の仕事を観られる機会は、やはり更に徐々に減っていくんだけど、やっぱり決定的なのは『ファイナルファンタジー』のフルCG映画に関わることになって、スクウェアに呼ばれてハワイに行っちゃってからだ。その直前に『機動戦艦ナデシコ』(’96)の作品内作品にして’70~’80年代ロボットアニメへのオマージュでもある『ゲキ・ガンガー3』への参加で、ちょっと盛り上がったりしたけど、以降、殆ど目にすることができなくなる。
よりによってFFごときに囲われて、氏の仕事が見れなくなってしまうなんて、と、どれだけスクウェアの、あのヒゲを呪ったかしれない。(んで出来た映画はあんなもんだしな!)
 
渡米前に、アニメーターの越智一裕(“近衛守”という変名で上記『ゲキ・ガンガー』の製作を仕切っていた人でもある)が音頭を取って、新たな分野に挑む金田さんへのエールという意味で、氏と関わりがあったりファンだったりする業界人に多数、寄稿してもらった同人誌を出している。これを買うために冬コミで並んでいたときの興奮は忘れない。あの時は、金田さんがらみの同人誌が出るなんて、というのと、それを買おうとする人がこんなにいるなんて、という二重の感慨があったと思う。(とかいって、どうせ良く分からずにとりあえず並んでるヤツもけっこういるんだろ?なんていう黒いこともしっかり考えてたけどな!)
 
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この前の引っ越しで同人誌を整理してたら、これが出てきたので、比較的、取り出しやすいところに仕舞っておいた。それが功を奏するときが、こんなに早く、こういう形で来るとは思っていなかったが・・・。
 
富野由悠季が“スクウェア以降の彼と、また仕事が出来たら、と願っている”と書いてる直ぐ後ろに“富野さんが『ダイターン』的なものをやるのであれば是非、参加したい”っていう本人のインタビューが並んでるのが今はなんとも言えない。
決してソリが合うタイプではなかったはずの安彦良和が、金田チックなイラストを載せながら、本人のことは褒めつつも、絵に関しては一っっ切評価していない、その正直さと大人な姿勢の危ういバランスに苦笑いしてしまう。
“金田氏がカナダに行く、と思ったがハワイだったんですネ” by 小松原一男。
 
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そして数年。
FF映画の仕事とやらも、もう終わってんじゃね?というような時期になっても、一向に金田さんの動向が見えてこないのは、CGなんかにダラダラ関わってる内に、普通の作画が出来ない身体にさせられちゃったんじゃねーのか?だとしたらオレはもう一生、スクウェアを許さねぇ!てめ、いずれぜってーアレする!などと、ほぼ妄想に近い怒りに身を焦がしていたのだが、
 
そこへ福音をもたらしてくれたのが、PS2のゲーム『半熟英雄 対 3D』(’03)のオープニングムービーだった。
そこには紛れもない“金田”があった。
ゲームとしてのこのシリーズは好きじゃなかったのだが何の問題もない。っつかオープニング観た記憶しかないし。さて何年モノの積みゲーでしょう。
この後の『4』(’05)、そして『武蔵伝II』(’05)も即買いしたなあ。あ、『武蔵伝II』は、ちゃんとプレイもしたよ。もうちょっとでクリアってところでメモカがぶっ壊れてデータ飛んじまったけどな!
でもそんな傷心も、金田アニメの喜びの前では屁でもないんだよ。
 
この頃、なにげに『ポポロクロイス』(’03)(ゲームじゃなくてテレビアニメ)にも覆面参加してて、ちょっとした金田バブルだった。やっぱりその原画が載ってる同人誌を喜び勇んで買ったけど、それを発行したのが今石洋之というのが、何をか言わんや、である(っつか自分とこの本に一緒に収録してるってことだけど)。
 
 
そして『ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU』(’06)が観られるのだ。
旧作『大空魔竜ガイキング』(’76)が作画監督デビューだった氏が、30年を経て、ここへ戻ってきたか!と、喜ぶこととなるのだ。
 
 
 
 
 
キャラクターデザインを無視することで有名、今風の薄っぺらい言い方をするなら、作画崩壊を得意とするアニメーター。
 
そうでありながら、宮崎駿、自分の絵柄から逸脱した作画を極端に嫌うこの人が、わざわざ“原画頭”という特殊なポストまで用意して自分の作品に参加させていた異能の人。
 
 
あまりにも判りやすかった、それゆえに、アニメの1カット、1カットを誰が作画してるか、いちいち見分けることの楽しさ、そんなことを覚えてしまう、間違いなくその原因になった筆頭の人。
 
 

2009/07/21

ディケイド vs シンケンジャー

『シンケンジャー』のほうは放送が1週休みだったが、この企画のおかげでそんな気がしなかった2週間。前回の『ディケイド』(細かく言うなら、この前週の『シンケンジャー』ラストからか)→今回の『シンケンジャー』→『ディケイド』、と番組を跨いで一連の時系列としてのエピソード。
 
戦隊シリーズは、この『シンケンジャー』から撮影方式が平成ライダーに近いものになってるので、地続きの話として観ても画質としては、あまり違和感がなく馴染みやすい。
 
ただ、そうであると、比較的かっちりとしたフレームを取る『シンケンジャー』側のカメラと、ちょっと傾いだ見せ方を多用する『ディケイド』側、など、逆に演出的な部分での違いが浮き立ってきて、お互いの演出の中に相互乗り入れ状態の登場人物たち、『シンケンジャー』的映像の中で動いている士(つかさ)たち、そしてその逆も然り、というのが更に目を楽しませてくれた。
 
でも、やはりこの3話+αを、ひとつの続き物としてストレスなく観られたのは、この全ての脚本を小林靖子が書いてくれたからだろう、と、オレなんかは贔屓目承知で、どうしても思ってしまう。
 
現在メインで手がけてる『シンケンジャー』のキャラ達がブレないのは当然として、(リアリティをどこに設定するかの感覚が、恐らく戦隊モノとはかなり異なるレベルであろう)平成ライダーにも、これまでガッツリ絡んでる彼女だからこそ、そこへの馴染ませ方も要領を得たものだったんじゃなかろうか。
 
その上、“ライダーのいない(要らない)世界”というフレーズに過剰に反応するナツミカンや、アヤカシが“ライダー”になってしまうことで“世界が侵食”されるということを、映像的にも実にダイレクトに分からせてくれる、など『ライダー』から最も離れた世界、という“利点”を最大限に活用して、この『ディケイド』というシリーズのテーマを、これまでのエピソード以上に浮き彫りにして、単なるお祭りやファンサービスに止まらない、放送も終盤というこのタイミングにはとても相応しいと思えるくらい意味のある内容にしてくれていた。
 
そして伊吹吾郎が演じる“じい”と石橋蓮司の“おじいちゃん”が、しっかりと役割を任されていたのも、彼女の脚本らしさかもしれない。(ところで今度のライダー劇場版ではこの、おじいちゃんと死神博士が一緒にいる場面とかあったりするのかな?)
年の功、みたいなカンジで含蓄のある言葉を授ける側なんかじゃなくて、むしろ士に諭される、っていうのがまた良いのだ。(士の「待ってる人間がいれば、そこが帰る場所だ」なんてセリフは『NARUTO』を連想してしまった)
 
まあ、総力戦に入ってからのユウスケ、っつかクウガが、いつも以上に張り切って活躍、してるように目立って見えたのまで脚本のおかげ・・・というのは言い過ぎか。
ラスト、ディケイドとシンケンレッドの、互いの得物を交換しての必殺技も心憎い演出だったけど、これは誰のアイデアかなあ。
 
面白かった。
戦隊モノと『ライダー』の歴史的コラボ、というだけでは終わらなかった、多分、オレ的に今後はこれ以上、盛り上がることはない、『ディケイド』に価値を感じる最後のイベントとなるだろう。
 
『マジンガーZ対デビルマン』的、とは思わないけれど、こういう、世間に知れ渡っている作品を複数抱えてて、且つこういう楽しいムチャが一般性を持ちつつ出来る、というのは、東映ならでは、と言えるのかなあ。
 
 
さて次回は『BLACK』&『RX』。そして倉田てつを。
『ディケイド』に『ウルトラマンメビウス』的なものを期待するのは早々に諦めたはずなのに、なにかを感じてしまうかもと思ってしまうのは、悲しい性だね。